大判例

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東京高等裁判所 昭和63年(う)836号 判決 1990年1月18日

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人島林樹、同中杉喜代司、同藤本達也連名の控訴趣意書記載のとおりであり、それに対する答弁は、検察官荻野壽夫の答弁書記載のとおりであるから、これらを引用する。

控訴趣意中事実誤認の主張(控訴趣意書第二の主張)について

一  被告人の過失に関する原判決の認定に関連して(控訴趣意書第二の一)

所論は、要するに、(一)原判決は、普通貨物自動車を運転していた被告人が、前方約一一・三メートルの地点にA運転の普通乗用自動車が停止しているのを認めたので、その動静を十分注視し、同車に衝突しないよう適宜速度を調節し、進路の安全を確認しつつ同車の後方に停止すべき注意義務があるのに、信号に気をとられ同車の動静不注視のまま時速約二〇ないし二五キロメートルで進行し、同車の後方約五・三メートル(被告人車の先端からA運転車両の後端までの距離)まで接近した、との過失を犯した旨認定しているが、被告人の行為に関連して右認定のうち、<1>A車が前方約一一・三メートルの地点に停止しているのを認めたとの点、<2>信号に気をとられたとの点、<3>A車の動静不注視のまま進行したとの点、<4>時速約二〇ないし二五キロメートルで進行し、A車の後方約五・三メートルまで接近したとの点において、原判決はそれぞれ事実誤認を犯しており、また(二)原判決が、その事実認定に関する補足説明において、<1>被告人が急制動をかけたごとく判示する部分、<2>ブレーキに欠陥のある車両とその欠陥のない車両との急制動をかけた場合の停止距離がほぼ同じであると判示する部分、<3>「被告人車のブレーキの利きが悪かったとしても、それは本件事故の原因ではなく、被告人が判示注意義務を尽くせばブレーキの利きの悪さを考慮してブレーキペダルを踏み込むことができ、本件事故は回避し得たものと認められる」と判示する部分は、それぞれ事実誤認に当たる、というのである。

そこで検討するに、右所論(一)に関しては、原審取調べの被告人の検察官及び司法警察員に対する各供述調書並びに司法警察員作成の実況見分調書の各記載内容は、特に信用できないものとは認められず、それら調書によれば、所論挙示の各諸点に関する原判決の認定は肯認できる。被告人は原審及び当審公判廷において、右各調書の記載内容と異なる供述をするが、その供述はにわかに措信することはできず、それら被告人の供述を基にあるいはそれに一般的な推測を加えて原判決の認定を論難する所論は、いまだ採るを得ない。所論(二)に関しては、所論挙示の<1>については、右被告人の検察官に対する供述調書等から認定できるところであり、同<2>については、その推論が本件の場合において判決に影響するような誤りを犯しているものとはいえず、同<3>については、たとえ被告人車のブレーキの利きが悪かったとしても、被告人は当該車両を本件現場に至るまで運転していてそのブレーキの利きの悪いことを十分承知していたのであるから、被告人に要求されるのは、そのブレーキの利きの悪いことを考慮して制動措置をとり、前方車両に衝突しないで停止できるよう車間距離等同車両の動静に注視すべき義務であって、被告人はまさにその義務を怠り本件追突事故を起こすに至ったものであって、原判決も同旨のことを判示するものであり、その判示に不当はない。よって、被告人の過失を認定した原判決の事実誤認をいう所論は理由がない。

二  本件事故による傷害の発生に関連して(控訴趣意書第二の二)

所論は、要するに、原判決は、被告人がその運転する車両をA運転の車両に衝突させたことにより、Aに加療約四週間を要する外傷性頭頸部症候群の傷害を負わせた旨認定しているが、原審取調べの各証拠を総合すればむしろAは右傷害を負っていないと認められるのであって、原判決はその点で判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認を犯している、というのである。

そこで、記録及び証拠物を調査し、当審における事実取調べの結果をも併せて検討し、以下のとおり判断する。

本件公訴事実は、「被告人は、昭和六一年一月八日午後零時ころ、普通貨物自動車を運転し、東京都江東区永代一丁目一三番四号先道路を門前仲町方面から永代橋方面に向かい進行するに当たり、A(当時四三年)運転の普通乗用自動車が停止しているのを前方約一一・三メートルの地点に認めたのであるから、その動静を十分注視し、同車に衝突しないよう適宜速度を調節し、進路の安全を確認しつつ同車の後方に停止すべき注意義務があるのに、信号に気をとられ同車の動静不注視のまま時速約二〇ないし二五キロメートルで進行し、同車の後方約五・三メートルまで接近した過失により、自車を前車に続いて停止したA運転の車両に衝突させ、同人に加療約四週間を要する外傷性頭頸部症候群等の傷害を負わせた。」というもので、検察官は原審第一回公判において、公訴事実中の「外傷性頭頸部症候群等」とは、外傷性頭頸部症候群及び外傷性腰椎椎間板ヘルニアであると釈明し、原審においてはAが右二つの傷害を負ったか否かが争点となって審理が行われたが、結局原判決は、Aの傷害に関して、外傷性腰椎椎間板ヘルニアについてはその受傷を認めるには疑念があるとして認定しなかったが、外傷性頭頸部症候群についてはその受傷の事実を認めたのである。

まず原審記録によれば、被告人が、昭和六一年一月八日東京都江東区内の通称永代通りを普通貨物自動車を運転して、時速約二〇ないし二五キロメートルで進行中、信号待ちで停止中のA運転の普通乗用自動車の後方約五・三メートル(A車の後端から被告人車の先端まで)に接近して急いで制動を掛け停止の措置をとったが間に合わず、A運転の車両に自車を衝突させ、被告人車はほぼその場に停止したが、A車を約〇・七ないし一メートル前方に押し出し、同車の後部バンパーに擦過の痕跡を残すとともに、同後部バンパーを押して同車の後部フェンダー右側端部分に僅かの凹みを生じさせたことが認められ、当審における事実取調べの結果によってもその点に変わりはない。そこで、右の事実関係を前提に、Aの外傷性頭頸部症候群の受傷の事実について考察する。

原審取調べの証拠のうち、Aの外傷性頭頸部症候群の受傷を積極的に裏付ける証拠は、A自身の原審証言と同人を診断した医師Bの原審証言のみである。そして、Aは、「タクシーを運転し、本件現場で赤信号に従い前方に停止していたトラックの後方約二メートルの地点で停止していた。衝突されたとき丁度運転席の座席を移動させようとしており、右手でハンドルを持ち、左手を運転席下のレバーにかけ、右足でブレーキを踏み、左足は床につけ、やや左向きかげんで前傾姿勢をしており、衝突されたとき上体がのけぞって後ろの背もたれにぶつかった。追突されて自分の車は一メートル前後動いた。衝突されたときは首は痛くなかったが、めまいが若干と吐き気があり、ちょっと気持ちが悪かったので、しばらく車に乗っていた。その後車から降り、被告人と話し合うなどした後交番に行き、話をしていたら腰がだんだん痛くなってきたので、警察官が救急車を呼んでくれ、タクシー会社指定の病院である柳橋病院へ行き診察を受けた。医師から入院を勧められたが、家庭の事情があるのでその日は帰宅した。その夜から右手右足にしびれが出てきた。翌日入院したが、その次の日あたりから首を後ろへ倒したりすると痛みだし、めまいが入院後もしばらく続き、吐き気も一日、二日続いた。」旨原審において証言し、衝突されたとき通常の運転姿勢でなかったことを強調するとともに、衝突された直後は首には痛みはなく、翌々日ころから首を後方に曲げた際痛みが出てきたというのである。また、被告人を最初に診断しその後治療にも当たっている柳橋病院の医師Bは、「頸部に関しては、頸部痛、頸椎の運動時痛があり、特に後屈の痛みが強く、また右上肢の鈍痛、倦怠感があり、更に握力の低下が認められ、右利きであるが、右手の握力が一二・五キログラム、左手が三一・五キログラムであった。レントゲン撮影の結果は、頸椎の四番目から六番目に項中隔靱帯の石灰化が認められ、それと共に頸椎の四番目と五番目の椎間板に不安定性が見られた。右の石灰化は、一種の靱帯の加齢現象であり、また推間板の不安定性とは、四番目と五番目の椎間板の間で前屈、後屈をしたとき多少ずれがあるということである。ミエログラフィー検査を行った結果、頸椎について四、五、六番目に多少通過障害があった。治療としては、薬物療法及びその一つとしての注射、更に理学療法を行っている。薬物療法としては鎮痛消炎剤、筋弛緩剤等を与え、理学療法としては頸椎牽引をやっている。入院は一月九日から三月二八日までで、その後は通院しているが、入院が長引いたのは症状がとれないことが一つの原因であった。六月二七日に最終的に診断したときは、頸椎に関してはかなり改善傾向が見られた。」旨証言し、Aの外傷性頭頸部症候群については、主に同人自身の痛み等の症状の訴えと追突に遭遇している事実から判断して同傷害が発生しているものと診断したものといえるのである。

しかしながら他方、原審取調べの吉川泰輔作成の鑑定書及び実車衝突実験結果抜粋並びに同人の原審証言によれば、「写真により認められる被告人車とA車の損傷状態と乗用車を使って行った衝突実験結果との対比による解析結果として、被告人車の衝突時の速度は時速三キロメートルで、被告人車から衝突されたことによりA車に生じた速度変化は二・五km/hであり、その衝撃の程度を加速度で表すと、平均加速度は〇・三六Gであり、衝突の瞬間には最大加速度〇・七二Gになっていることになるが、この程度の加速度は急発進するときにも発生する程度のものであり、アメリカで行われた志願者による鞭打ち症発生の実験結果によると、頸部を緊張している状態ではあるが、実験を嫌がったときの平均加速度は三・一Gであり、日本でも、被追突車両の衝突による速度変化が一〇km/h以下の場合、長期にわたる治療を要する鞭打ち症はほとんどないとの調査結果が発表されており、自分が実際被衝突車に乗って追突されることを意識しないで衝突を受けた実験でも、衝突車の速度が時速一二・六キロメートル、被衝突車の速度変化が時速六・二キロメートル、加速度最大値一・五Gのときでも、ドーンと激しく衝突され、背中がシートに、頭がヘッドレストに強く当たったが、首も腰も痛くはなかったので、結局本件においてAに鞭打ち症が発生したということは極めて考え難い。」というのである。また、原審で取り調べた平岩幸一作成の鑑定書及び同人の原審証言によれば、「本件衝突によりA車に加わった加速度は〇・七二G程度と考えるのが妥当であり、たとえ考えられる最大値をとったとしても、一・六Gであり、それらの程度の加速度によってはどのような着座状態であっても鞭打ち症が発生することはなく、まして衝突を受けた後ヘッドレストに頭が支えられる状態になるときは、頭頸部症候群が発生するはずはなく、アメリカの文献によると、頸椎捻挫が生じるには加速度三・二Gが必要であるとされており、B医師の診断によると、Aには第四頸椎と第五頸椎との間に多少のずれがあったということであるが、それは外力の作用を受けない人にも見られる程度のものと考えられ、頸部症候群により握力が低下するのは、すごい外力が加わって頸椎が欠損したり、神経根が損傷した場合であって、一般的な軽い症状のときは握力の低下は起きないと考えられ、頸椎捻挫が発生するための追突車の限界速度は、一般的に時速一六キロメートルといわれており、本件で被衝突車に生じた加速度は、通常の発進時にも生じる程度の加速度である。」というのである。さらに、原審証人丹羽信善は、Aに対するカルテ等を綴った診療録等やAのレントゲン写真を見たうえで、「頸椎と頸椎の間の関節(ルシュカ)の飛び出しが少しあり、頸の神経を圧迫するが、それは経年性の変化であり、また頸椎の四番目から六番目に項中隔靱帯の石灰化があるが、それも経年性の変化である。頸椎の四番目、五番目の並びは不揃いであり、その四番目と五番目の頸椎の間の椎間板は配列不正となっているに過ぎず、それは事故によるものではない。頸神経の神経孔が骨棘によって圧迫された状態が見えるが、それも経年性のものである。頸部に椎骨の変性に伴う椎間板の軽度の変性が見られる。頸椎のレントゲンフィルムを見ると、外傷性頭頸部症候群の特徴は認められない。一月九日の外来カルテには嘔吐なしの記載があり、患者のAは医師に事故後吐いたことはなかったとの返事をしているものと解される。」旨証言し、頸椎には経年性の変化や配列不正は見られるものの、事故によるものと解される変化は見られないというのである。

以上列挙した原審取調べの証拠をあれこれ勘案すると、医学的見地からしても、Aの痛み等各症状の訴えと各種の診断結果からして外傷性頭頸部症候群という断定を下せるかはなはだ疑問であるのみならず、力学的見地からしても、被告人車がA車に追突したその状況からして果たしてAに外傷性頭頸部症候群、いわゆる鞭打ち症が発生する可能性があったか疑問があるといわねばならない。そして更に、当審で取調べた鑑定人江守一郎作成の鑑定書によれば、「被告人車とA車の両車の損傷状況等からして被告人車がA車に追突した際の速度は、時速三キロメートルから高くても同四キロメートルであり、追突されたことによりA車が押し出されたときの速度は時速一ないし一・五キロメートルで、追突によりA車に加わった最大加速度は〇・三ないし〇・四Gであり、アメリカで行われた椅子に人を乗せてその椅子を急に動かす実験結果によると、被実験者が頸部に痛みを訴えはじめたときの椅子の最大加速度は、頸が後方に曲がる場合は約三G、前方に曲がる場合は約四Gであるといわれていることからすると、A車に加わった程度の加速度では鞭打ち症になるとは考えられなく、さらに、Aに外傷性頭頸部症候群が発生した可能性があることの理由として原判決が挙げる衝突時の同人の姿勢に関連しては、Aが証言するようなやや前かがみの姿勢では、後方から押す力が働いても頸部は前後に屈伸し難くなり、かえって鞭打ち症は発生し難くなると考えられる。」というのである。してみると、原判決がAに外傷性頭頸部症候群が発生したと認定したのは、もはや誤りであるといわねばならず、その誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかである。所論は理由がある。

よって、その余の控訴趣意について判断を加えるまでもなく、刑事訴訟法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により更に次のとおり判決する。

本件公訴事実は前掲記のとおりであるが、原審及び当審取調べの各証拠によれば、被告人が自車をA運転の普通乗用自動車に追突させた事実は認められるものの、その結果Aに外傷性頭頸部症候群の傷害を負わせた事実は前示のとおり認められず、その余の傷害を負わせたことも認められないので、本件公訴事実は犯罪の証明がないことに帰するので、刑事訴訟法四〇四条、三三六条により無罪の言渡しをする。

(裁判長裁判官 高木典雄 裁判官 福嶋登 裁判官 松浦繁)

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